2011.01.15
1月12日はオーストリアのレルヒ少佐が高田金谷山にスキーを伝えて100周年の日だ。
子供の頃からボーゲン、シュテム、プルーク、パラレル、やゲレンデ、シャンツェなどの
外国語の用語を普通に使っていたし、スキー用具はなんといってもフランスやオーストリア
製があこがれだったから初めからヨーロッパのものだと思っていた。
歴史的には、私の感覚ではまだ100年?という感じだ。 物心ついた頃からスキーに
馴染んでいたので、もっとずっと前からあったと思っていた。
ゲレンデとして整備されたスキー場も、戦前からあったのはごくわずか。 岩原は上越線
全通に合わせて昭和6年の開場で今年80周年を迎える歴史あるスキー場だ。
初めて岩原に行った時、水色の木造三階建ての「岩原観光ホテル」でお昼を食べた時の
衝撃は今でも忘れない。 スキー靴を脱いでスリッパに履き替え2階のレストランに入る。
黒いジャケットに蝶ネクタイのボーイさんが入り口からテーブルまで案内してくれる。
初めて「ニコニコ食堂」と「大和百貨店」以外の本格的な洋食レストランを体験した。
当時、東京からやって来るお客様は、ウィンター・バカンスで長期滞在が普通だった。
冬の間ずっと滞在し、用のある時に東京に帰るというパターンの人もいた。
普段の生活からは考えられないカラフルなウエアーを身に着けて、颯爽と滑るスキーヤー
のカッコウ良さは子供心を刺激した。
戦後しばらくしてスキー場開発が活発になるが、小出スキー場が昭和28年で石打丸山が
一年後の29年、大湯温泉が昭和35年で苗場が36年の開場だ。
あの頃は用具もスキー部ででもなければ、単版のスキーに長靴とバッタンという簡単な
ものだった。 その後経済成長に合わせるように急速に進歩していった。
エッジ付きの合板の板にビンディングはカンダハーとなり、その後はグラスやメタルの
スキーにプラスチックの靴、セイフティー・ビンディングへと変わっていった。
この間わずか15年くらいの物語りだ。 そして今、スキー人口は減少の一途をたどる。
雪国の冬のイメージを大きく変えたスキーがピンチだ。 皆でスキー場に行こう。
♪ 絶好調真冬の恋 スピードに乗って 急上昇熱いハート とけるほど恋いしたい・・・
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