2010.01.30
2月12日から28日まで、いよいよカナダ・バンクーバー冬季オリンピックが開催される。
冬季オリンピックというと、スキー選手として最初に出てくる名前がトニー・ザイラーだ。
1956年のイタリア・コルチナ大会でアルペン競技3冠を達成した。
ヒッコリーのスキー板にビンディングはカンダハーで、オーストリア製のクナイスルの
「ホワイトスター」を世界NO1スキーへと押し上げた。
その後も映画俳優として数多くのスキー映画に主演し、長い間スターとしての地位を保った。
スキー場の設計にも取り組み、日本でもいくつかの設計を手がけており、ザイラーゲレンデ
といった名前が付けられている。 代表的な映画、「白銀は招くよ」は、テーマソングも
大ヒットし誰もが口ずさんだものだった。
次に思い浮かぶのが、1968年のフランス・グルノーブル大会のジャン・クロード・キリーだ。
彼も3冠を達成し、「王者キリー」と呼ばれ、フランスナショナルチームのトリコロールの
ニワトリのマークを付けたロシニョールとダイナミック・ミシェルがスキー少年の憧れだった。
この大会も後にドキュメンタリー映画になるが、フランシス・レイの作ったテーマソング
「白い恋人たち」は、題名のうまさと叙情的なメロディーで忘れられない名曲だ。
1972年、戦争でここまで延びた待望の「札幌オリンピック」では、トワ・エ・モアの歌う
テーマソング「虹と雪のバラード」のヒットもあり、まさに国をあげての大会となった。
特に注目を集めたのがジャンプ競技で、笠谷、金野、青地の3人が金、銀、銅のメダルを
独占し冬季大会では、ザイラーに敗れて銀となった猪谷千春選手以来の快挙となった。
またこの大会でのもう一つの話題は、フィギュアスケートのジャネット・リン選手で尻もちを
ついても銅メダルを取ったが、スケートのことより愛くるしい容姿で人気者となった。
その後も1980年のレイクプラシッド大会では、天才の名を欲しいままにしたステンマルクが
2冠を達成したが、それ以降のサラエボ、カルガリーではスター選手の記憶は薄い。
1992年アルベール・ビル大会では荻原健司がノルディック複合で金を、リレハンメル
大会でも複合団体で金メダルに輝き、黄金時代を築いた。 東京オリンピックの年に
生まれて命名された橋本聖子も、92年の大会で日本女子初の冬季五輪メダリストとなり、
奇しくもその後荻原健司共々参議院議員に転じ政治の世界で活躍している。
1998年長野オリンピックの開催では、オリンピックの経済効果が良い面でも、悪い面でも
話題となった。 建設業界は一時的にオリンピック景気に沸いたが、工事終了後ほとんど
仕事が無くなり需給の悪化から過当競争となって地元業界は疲弊した。
2000年には脱ダム宣言の田中康夫知事が登場し、公共事業不要論とともに更なる
削減がなされ、政治に翻弄されたあげく倒産が相次いだ。
長野大会でもジャンプは強く、岡部、原田、船木が団体で金を取った事でその後、
日本人にとって不利といわれたルールの改正へと発展したのも記憶に残ってる。
スケートでは、清水宏保が金と銅、岡崎朋美が銅メダルに輝いたが、二人とも現役で
活躍し続け岡崎は今大会でも出場を決めた超人だ。
オリンピックは、人間の可能性を選手たちの日頃の鍛錬により競い合う場だが、記録への
挑戦のためには各メーカーの研究開発による用具の進歩も欠かせない。
素材も木や布から、新素材へと変わりトニーザイラーの時代とは隔世の感だ。
バンクーバー大会では、魚沼の技術が採用されている。 リュージュの部品だそうで
広神地区の木材加工の貫木産業の製品だ。
こうした経済合理主義では成り立たない、多くの目に見えない努力の結晶が魚沼からも
オリンピックを支えている事を、再認識しながら観る競技は一味ちがうはずだ。
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