会長ブログblog

2010.01.23

寒の晴れ間

1月20日から2月3日の節分までが大寒、暦の上では冬の最後の節季となる。

最近では少し違ってきたようだが、魚沼の最深積雪日は小出あたりが2月20日頃で、
山地へゆくに従いその時期が遅くなる。 大湯温泉や須原あたりが3月初め、大白川まで
入ると3月10日過ぎに最も積雪量が増える。(過去の観測値の平均)
それでも立春を過ぎると、増え方も緩やかで寒中のような降雪は少なくなる。

大寒は1年で最も寒い時期だが、東洋思想では一番寒いという事はこれ以上寒くならない
という考え方をする。 もう少しで春がやってくるから辛抱強く待てる。
冬の晴れ間の景色は時間と共に変化する、雪国独特の空気が作る陰影の美しさ。
雪化粧した針葉樹とそこから伸びる稜線がつくるコントラスト、神々しいという形容が
似合う。 ここに住んでいるから、冬だけの一瞬の恵みである造形に遭遇できる。

雪国の自然や生活様式を著した鈴木牧之の「北越雪譜」。
堀之内の「雪中花水祝」と、小出の「シガ」が紹介されている。
「雪中花水祝」は、ここで生きる人々が繰り広げる雪国ならではの、冬の伝統行事。
「シガ」は冷え込んだ朝、川面の木立ちに着く霧氷のことで、美しい自然の芸術そのものだ。
牧之は魚沼地方の風土に貴重な価値を見いだし、江戸をはじめ各地に伝えた。
雪の無い関東の民は、この風土記を読み、遠い雪国への憬れを膨らませたことだろう。

上越線の開通により、川端康成の小説が雪国への憧憬をさらに高め、その流れは
その後のスキーブームへとつながった。
越後湯沢、石打からスキー場の整備が始まり、当地でも小出スキー場がいち早く設置
され、昭和30年代に入ると大湯温泉、須原、権現堂、中峰、薬師、奥只見丸山、大原と
次々にスキー場開発が進み、各スキー場とも多くのお客様で賑わった。

あの頃は上越線沿線が首都圏から最も近かった上、岩原スキー場は映画俳優が
オーナーで、その後も当時人気スターを多く抱えた芸能プロダクションが経営した事も
あって、東京の富裕層が数週間~1ヶ月単位で冬のリゾートを楽しんだ。
若者も、上野から6~7時間もかけて超満員の夜行列車でスキーに来たものだった。
新幹線開業時に「GALA越後湯沢」駅が開設されスキー場直結駅として脚光をあびたが、
もともと上越線では「越後中里」、「岩原」、「上越国際」、といった各スキー場前駅があり
シーズン中は急行も停車した。 

首都圏の鉄道各線は、遊園地や学校の誘致、さらには田園都市構想による宅地開発
といった発想で、下り客需要創出に取り組んだ。 これに倣い雪国でも冬の需要を
スキーで創出する積極的な姿勢が当時の鉄道事業にはあった。
国家として、鉄道や道路の基幹交通網の整備構想がしっかり示され、事業化へ向け政治が
リードする形で、国の将来像をあるいは夢を国民に提案し目標に向かって進んできた。

時代が変わり、魚沼市はスキー場経営から撤退という方針が示された。
存続が問われて、失われるものの価値に気付く。 皮肉にも今年は、オーストリアから
近代スキーが高田金谷山に伝えられて100年目にあたる。
新潟県も、冬の観光の中心であるスキー客の復活に取り組む行動を起こす年だ。

スキー場の存続は雪国の当然の使命と考え、寒くて暗いイメージから、ロマンと楽しさに
溢れる地域を創る事こそ、今を生きる私たちの責任と考え行動しよう。


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