株式会社三友組 新潟県魚沼市の総合建設業

母を送って

9月で96歳の誕生日を迎えた母は、何度か入院加療したこともあったが生涯現役だった。

今年は春と秋に体調を崩し2度入退院を繰り返したが、いわゆる延命治療は施さず
最後は自宅(友家ホテル)で看取った。 6人の子供と数人の孫、そして近くに住む
私たちの従妹に囲まれての旅立ちだった。 一昨日、大湯・栃尾又温泉の旅館の皆様と、
御近所の皆様、そして親族による近親者だけの葬儀を終えた。

春の入院後、夏前に一度退院したが7月末の新潟・福島豪雨災害で自室が水没し
復旧までの間、我が家で預かった。 この水害以降、精神的なダメージが大きく
秋には再入院となったが、越後三山に初雪が降る頃に退院し、自宅療養へと戻った。
旅館の女将として、6人の子の母親として大正から昭和そして平成を生きた。

絵を描くことと押し花が趣味で、作品も数多く残して額装してあったので並べて弔問者に
見てもらった。 晩年になっても何事にも旺盛な興味を持ち、90歳を過ぎて習い始めた
ピアノは年齢相応のゆっくりとした演奏だった。 パーソナル・コンピューターにも関心を
示し、使い方が詳しく書かれたメモ帳が残されていた。

幾つになってもこだわって生きる姿勢は立派だった。 脳梗塞を始め何度か入退院を
繰り返し、お医者様の世話になりながらも、その都度回復してきたのもその精神力の
強さ故だろう。 大正4年生まれだから、関東大震災の時に小出ではどのくらい揺れた
とか語ったが、太平洋戦争の記憶は自身の辛い体験もあり、あまり話さなかった。

父が早くに亡くなって、今年33回忌を何ヶ月か早く執り行なった。 父の時は私も
まだ26歳で右も左も分からなかった上、建設業を継ぐために仕事も変わる事となり
10年間に亘る東京での生活を閉じて故郷に帰った。 人間の繋がりはそれぞれが
影響し合って造られてゆくが、親子ならなおさらだ。

年の瀬を迎へ、思い起こすと今年も多くの人々との別れがあった。 つい先週も先輩の
葬儀に参列してきたばかりだった。 礼服の口々からは、白いネクタイの機会は減った
が、黒いネクタイは今年も何回目かだと言う言葉が聞こえてくる。
何時かはこの日が来る事は分かっていても、やはり寂しい。

ほほにつたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし 人を忘れず  (啄木)

返信

*
*
* (公開されません)