株式会社三友組 新潟県魚沼市の総合建設業

奥只見発電所50周年

銀山湖畔の水は水の味がし、木は木であり、雨は雨であった。

開高健が「夏の闇」の推敲で滞在した銀山平を表わした言葉だ。 北の又川は尾瀬沼から
流れる只見川に合流し、会津を経て阿賀野川から日本海に出る。 その豊富な水資源を
利用し、戦後急激に伸びる電力需要を賄うため奥只見ダムを中心とする水力発電計画は、
国家プロジェクトとして進められた。

只見川開発の中心施設、奥只見発電所は昭和35年の完成から今年で50年を迎える。
紅葉が美しくなる来週20日には、半世紀の歴史を祝う記念式典が行われる。
電源開発や新潟県、地元魚沼の関係者が一堂に会し、ダムのもたらした恵みに感謝する
一方で、奥只見・尾瀬の生態系の保全を考える良い機会となる。

銀山平は名前のとおり銀鉱の発掘で江戸時代、幕府直轄の上田銀山として栄えた。
現在は湖底に沈むが当時3万人の町が栄え、小出の歴史は銀山開発の歴史でもある。
ダムにより出来た人造湖だから奥只見湖と呼ぶが、歴史を考えれば銀山湖が合う。

越後人は宣伝下手といわれるが、銀山を只見(会津)の奥と呼ぶ事に抵抗しなかった。
信州の人が千曲川と呼ぶのに、新潟ではわざわざ信濃川と言う。 小出から大白川間でも
只見線と呼んだ。 ちなみに、全通前の会津若松~只見間は福島では会津線と言っていた。
奥ゆかしいと言うのか、自己主張が下手と言うのか、随分遠慮深いことに変わりない。

奥只見の開発は、経済効果と共に都会の文化も運んだ。 国や県の役人が現地視察の
ため、多勢大湯温泉に逗留した。 それまで山あいの湯治場であった温泉地が、観光地へ
と変わってゆく。 電源開発や大手建設会社の社員が全国から小出に生活の場を移す。
小出の料亭文化が一気に花開き、当時柳原の喜久寿司は、県下随一江戸前が売りで、
店主が上越線夜行列車で築地に買出しに通った話は有名だ。 

あの頃の小出は周辺の町とは比ぶべくも無い程賑わった。 三島由紀夫はダム建設時の
電発の技師を主人公に「沈める滝」を書いた。 雪深い辺境の地、八崎で冬越えをする人々
の葛藤が人間くさく描写されていた。 あれから50年の歳月が過ぎ、新たな時代を刻む。 
今を生きる私たちに必要なものは、未来を創る夢を語ることだろう。

枝折峠への国道、越後駒ケ岳を仰ぐ通称長峰に「沈める滝」の石碑がひっそりと佇む。

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